昨日の「人の重さを持つ」からの続きで更にエア介助の続きにもなるという、本日は一石二鳥の記事(ほんまか)
昨日の記事で、こう書きました。
「相手のことは、相手に任せましょう。善意から出たものでも、他人の荷物に関わるのは人の重さを引き受けるのと同じことになります。
そうしていつか腰が痛くなったとしても、それは持った側が誰かの重さを代わりに持ったからなのです。」
これは心理的な荷物、思考に関する話だったのですが、ここだけ読むと、介助のときの話に読めますね。
ここで、先日のエア介助の後半の太字を含んだ部分をみてみます。
「あなたが立つのを手伝ってもらった」
「あなたが座った状態から立った状態になるまでのプロセスの大部分を介助者にやってもらって立位になった」
上記の二つの文。二つの記事を一気にまとめてしまえ、というこじつけも多少含まれておりますが、
・上は、介助者も介助を受ける側も、自分の重さは自分で持って座った状態から立った、ということを表現しています。
・下は、介助を受ける側は自分の重さのかなりの部分を自分で持ってはいません。その重さを誰が持っていたかというと、介助をする側です。なぜそういうことになったかというと、太字の前に書いてある部分にそのヒントがあります。
「エアでも実際にでもいいのですが、上記の介助方法を受けた後、自分一人で立ってみてください。
自分一人で実際にやった立ち方と介助を受けたときの立ち方が、もしもかけ離れていたならば、」
太字の部分の結論は、上記の前提があります。
この記事のエア介助においては、自分で立つ立ち方に近かったかどうかで、重さを自分で持ったかどうかを判断しています。
自分でできない動き、もしくは、自分で普段やらない・やりにくい動きというのがあります。それはイコール、自分の中で重さを自力で移動することができない動き、もしくは、自分の中で重さを自力で移動しにくい動きです。そういう動きを強いられるとき、人は自分の重さを誰かに肩代わりしてもらわないとスムースに動くことができません。
以上、分かりにくい表現なのと、毎度おなじみ長くなったので、後日具体的にまた書こうと思います。
つまり、この話は更に続く。話が長くてすみません~。