枕から始まった、「寝る」という活動と環境の話、最終回でございます。
もはや「寝る」の枠を超えて単に環境の話になっている気がしないでもないですが、まあいいか(?)
昨日のブログは、ヒューマンファクタリング、人に環境を合わせるって本当はどういうことでしょう、というところで終わっていました。
ここで、またもや。曽我さんのお話を、再度引用させていただきます。
「あくまで私が思う(世界の中で日本だけがエアーマットを使っている割合が突出しいる)1番の理由なのですが
介護用のリフトが普及していないからと感じています
先進国ではひとりに1台リフトを活用して起きあがったり、車椅子への移乗をさせて血流の滞りを防いでいる
しかし日本の介護の現場ではリフトに対して根強い否定感がある
人による介護神話です」
人の手によらない介護である、リフト。
同じように人の手によらないものに、ベッドの背上げを利用して人を端座位にするっていうのもありますね。
あとは、人の動きを助けるロボットスーツとか。
これらについて、私は一概に反対派ではありません。
人がやらなきゃダメとは、思いません。
でも、それらが真の意味で人に環境をあわせるものであったら良いなあ、とは思っています。
それは、人の手による介護でも、同じです。
立ち上がりのエア介助の記事で書きましたが、自分で動けないような動きの介助をされるというのは、本当の意味では、人に合わせた環境の提供ではありません。
自分で立つときの立ち方ではない状態で、介助者に頼って半ばぶら下がるように立たせてもらうというのは、立つための環境を提供されているのではなく、自分ひとりでは立てない環境を提供されているということになります。
介助者とともに動くことが動きの学習であるとすれば、立つたびにぶら下がる立ち方を提供されている人は、立つたびに
「今の私にとって、立つということは、人にぶら下がって立つことだ」
ということを学習しているのであり、
「あなたは、人にぶら下がらないと立てません」
という、動きのメッセージを受け取っているということになります。
それは、介助するのが機械であっても、人の手であっても同じです。
人の手による介助であれ機械による介助であれ、介助の主体は介助を受ける人です。
介助を受ける人が、自分で動いているのと同じような介助が受けられることが、人体の構造からみても、望ましい介助なのではないでしょうか。
キネステでは、基礎のコースで自分の動きを知り、その経験を通して、一般的な「人の動き」に含まれる動きの概念を学習します。
そして、応用のコースでは、基礎で学んだ動きの概念を使って、動きに何らかの制約のある人の動きを分析し、それに基づいて他者とともに動いて介助することを学びます。
人の自然な動きとは何かを学び、その動きをする上で足りない部分をサポートすることを学ぶのです。
人ができるだけ無力感を感じることなく、可能な限り長く自分で動けるようなサポートが、世の中の標準となるために。
介助に携わる人だけでなく、介助するための機器や用具を考える人や勧める人にも、ぜひキネステを知って欲しいと思います。
そのために、東京でキネステを知る機会を提供しています。予定や内容については、こちらをクリックしてご覧ください。
以上、5回にわたる、ときにはぐだぐだな長い環境の話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
そして、曽我さんへ。この話を書くヒントになったブログをシェアさせていただいて、どうもありがとうございました。いつか愛知で点描曼荼羅を描きたいです!