らくらく介護宣言の「楽」という言葉にみる行動の主体(昨日のロボットの話の続き)

一昨日の続きの昨日の続きです。

昨日の話は、「介助を受ける人の動きを手助けする」というのはどういうことかという話は「介助の主体は誰なのか」ということに繋がるんじゃないでしょうか、というところで終わっていました。
それを考えるために、例として、「神奈川らくらく介護宣言」にもあった「楽」な介助、という表現をみてみましょう(説明が楽なんで)。

楽な介助。
ある介助が楽かどうかを決めるのは、誰でしょう。
っていうか、そもそも、楽って、誰にとって楽な介助なんでしょうか。
対象の可能性を挙げてみると、
1介助を受ける人
2介助する人
3介助によって利益を被る第三者
・・・などが考えられますね。
たとえば、ヘルパーさんが「利用者さんを寝返りさせるのが楽になりました」って言うのは、2の、介助してる人が楽になったって言うことですよね。
ご家族が「デイサービスに通ってくれるようになって、楽になりました」って言うのは、3かな。
らくらく介護宣言はどうかというと、リンク先を読んでいただければわかりますが、2です。
こういうときは、1の、介助を受けている人は、話の中には不在です。
でも、なんで不在になるんでしょう。
そもそも介助を受ける人に何かしら不便が出てきたから、手助けを必要としている訳です。介助を受けている人が介助を受けなくて良ければ、介助は必要ないわけです。

ちょっとかなり離れた例えですが、
「あの人最近目が悪くなったみたいだから、眼鏡を買ってあげよう」
・・・と、人の眼鏡を勝手に買ってくる人は、あんまり居ないですよね。
「ねえ、最近、テレビが良く見えなくなってない?どういうときに見えない感じ?目を休めるとか、目の体操とかでなんとかなりそう?眼科に行って検査してみる?眼鏡作ったほうがいいって?かけてみてどう?快適なら、それでいってみようか」
みたいな、段階を踏みますよね(ここまで細かくは無いかもしれませんが)。
これはどっちも「目が悪くなった人への手助け」かもしれませんけど、上の手助けと、下の手助けは、行動の主体が違います。
上の私は、私があなたのためにやってあげたのです。
下の私は、あなたがそれをやるのを、本人が意識していないことを指摘したり、希望を聞いたり、情報提供したりして、手伝ったのです。
というわけで、
「今どういう状態?何が足りなくて、何が必要?その対策には、何がある?その中で、どれを選ぶ?やってみてどう?じゃあ、これで行こうか(または、別の対策考えようか)」
というプロセスが全然無い時は、もしかしたら、ちょっと気をつけなくてはいけないかもしれません。

ということで、昨日のロボットの話も、
「これが必要でしょ、はい」
と渡されただけだなのと、
「どれが必要?必要なことを手伝いますよ」
といわれたのとでは、主体が違いますよね、ということでした。

明日は「楽」という話のおまけを書きます。

 

 

 


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