先日、キネステティク・クラシック パーソナルレベルのコースのときに、
「痛みを訴える人を介助するとき、介助する側も緊張しがち」
という話になりました。
そのとき、「相手の痛みは相手の痛みなので、ひきずられないようにしましょう」と伝えたのですが、
「それでも痛いって言われたとき、どうしたらいいですか」と聞かれました。
介助する際の「痛い」については、特に何もしません。っていうか、何も出来ません。せいぜい、「そうですか~」という程度。
介助する上で自分が出来ることを、ゆっくりひとつずつやるようにします。
介助するとき、思いやったり、やさしくしたり、どうにかしようとはしません。
人のことについては、思いやれないし、やさしくしたりできないし、どうにもしようがないからです。
相手の人の痛みは、相手の人のものです。
相手の人がどうにかするしかありません。
こちらにできることは、「私がやっていることが不快だったら、遠慮せずに、いつでも『やめて』と言ってくださいね」ということだけです。
相手の人が痛いのは、私のしたことが原因かもしれないし、たまたま今日は何もしなくても何をしても痛いのかもしれないし、痛み以外の感覚を「痛い」という言葉で表現しているのかもしれないし(そういうことは時々あります)、それは全部介助されている人の感覚であって、介助している側がどんなに想像してみたとしても、同じものを感じることは出来ません。
それを察するのは無理ですし、察しようとすると、お互い苦しくなるだけです。
「相手の人が『痛い』って言えなくて痛めたら、どうしたらいいんでしょう」と聞かれましたが、「痛かったら言ってくださいね」と告げていたら、それは痛くなった人の責任です。
それと、「痛いといえない、判断できない人の身体を傷める可能性があるのでは」という意見も頂きましたが、それは、ゆっくり丁寧に相手の反応を見てやっている限りは起こりにくいです。傷めるときは、許容範囲や限界を超えるから傷めるのことがほとんどなので、きちんと確認していたらほぼ大丈夫です。
思いやらない、やさしくしない、どうにかしようとしないけれど、観察と確認はします。
どこが違うねんと言われそうですが、相手の感覚の範囲には関わらず、自分の感覚を押し付けず、自分の感覚の範囲で自分のできることだけをやる、ということです。
意味が分からないという人は、キネステの見学会へどうぞ。
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