みんな好きな服を着ればいい(※比喩)

私のクラニオの師匠は故人なんですけど、教わった中でも一、二を争うほど価値があったと私が思っていることを書きます。

「システムは賢いから、自分を守るためにはなんでもする」です。

みんなそれぞれ信じているものがあって、単にクラニオだけを取っても、圧をかける派とかかけたらダメ派とか頭蓋骨じゃなくても触れてたらいいんだ派とか遠隔でもイケる派とかそもそも頭蓋骨の縫合は動かない派とか、さまざまな意見があります。
この辺はほかの、解釈を伴うようないろんなことでも言えることなんですが(※キネステティク・クラシックには無いです、キネステは本来は道具なんで、事実だけで解釈する余地は無い)、私はそういうことがあるたびに、師匠のことばを反芻します。

生き物のシステムは賢いので、一番いいと思ったことを、勝手にやります。

なので、何かを見たときの解釈が違っても、それはそれでいいんですよ。だって、システム自体が、違うんですもん。
ですので、みんな違っていいと思ってますし、私は私の解釈を持っていますが、他の人がその人の文脈で話すときは、特別に何か無い限り、それに準じるようにしています(その方が圧倒的に楽しいから)。
それでも、結局は同じことを言っているんですよ。
中が同じなら、着ている服が違うだけで「それは違うでしょ」という必要性を、私は感じません。
むしろ、自分は着ない服だとしても、いろんな服がある方が、世の中は楽しいと思います。
ただ、自分が人に何か言うときには、私の解釈できる範囲で、なるべく色が付いてない、多くの人が「それ違うんじゃないの」と思わなそうな、素材っぽいことを言うようにしています(そのあと聞いた人がどんな味をつけるかは完全にお任せです←これはこれで過去の強烈な学びの結果なんですが、それはまたの機会に)。

・・・と、ちょうどこの時期が師匠の命日だったりなんだりするんで、書いておきました。

 

 


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